いわせんの仕事部屋

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「そうきたか」。

学級がはじまってすぐの頃。

まずは先生であるぼくらがあそびの触媒になることも大事。

 

そんな頃の昼休み。こんなことがありました。
「Sケンやろう!」とクラスの子が飛び出していきました。
「せんせいも来る?」
「うーん、じゃあ職員室にこのプリント置いてから行こうかな」
「じゃー先に行って始めてるね」
「チーム分けどうする?」
「昨日は男女対決だったから、今日はまぜて出席番号でいいんじゃね?」
「外行って決めよう-」

外に向けて駆け出します。こらこら階段を走らない。


ぼくは職員室によってのんびり校庭に向かいます。
まだ4月でクラスがスタートしたばかり。
ぼくが早く行くと、
「先生にチーム分けを仕切ってもらおう」という気持ちが生まれやすい。
でも自分たちで適当にチーム分けしてスタートすることってとても大事だと思うので、わざわざのんびりめに。
校庭に行くと、何人かの子が憤慨した感じで駆けてきました。

 

「Sケンの場所、他のクラスにとられてた!」
「私たちがいつも使ってるのに、先にとったって!」

 

他のクラスでもSケンが流行り始めているので、場所の奪い合いになったようです。

 

「あらら。どうする?」
「だってずるいよー!」
「どうしたらいいかねえ。このままじゃできないよ?」
「でも、あの線、せんせいが書いた線でしょ?」

「そうだけど、校庭はみんなのだからね」

「……じゃあ、一緒にやろうって言うかぁ……」
「言ってみれば?」
とボク。

ある男子が交渉にいきました。
「2クラスで対戦しようよ」
「こっちは全員来てないから負けるし!!」
「オレ達が先にとったんだぞ!」
と、ボス的な感じの男子。
「だってよ!センセイ!」
憤慨してます。
なんだか険悪な空気。

ついつい、先生であるぼくらはなんとかしようとしてしまいがち。

でもこんなときは、

「そうきたか!」とリフレーミングする。

一緒に困ってみる。

 

   *  *  *

 

 

おお、そうきたかー!おもしろくなってきた。どうなるかなあ。こういうトラブル体験するの大事だぁ。まずは見守ろう。)

 

「こまったねえ・・・」
とぼく。

爆発寸前の人。
なんとかしようとする人。
あきらめて鉄棒に向かう人。
行動はホント様々。

そんな中、一人の女の子が、その男の子に、

「じゃー、ごちゃごちゃに混ぜてやろうよ!」

と一言。
そうしようそうしようと場の数人がグッと動き出し、
勝手に2チームに分かれ始めた子がでました。

「えーー」
と顔をしかめる子も何人もいる中、周りがばばっと動き出して、それを止めることもできずに、なんとなく混ざってスタート。

始まってしまうと、何事もなかったように遊び出します。
風が強く、砂埃が舞う中、泥だらけになり、ぶつかり合ってます。

まあ、なんともうまくいきすぎですが、たとえもめてしまってもいいと思ってました。
そのトラブルは子どもたちのためのもの。
どちらにせよ、待っているつもりでした。

この場で解決しなくてもいい。

 

「そうきたか」とそのトラブルを見守るのってけっこう大事だと思うんです。

たくさん失敗する機会を大切にしたいな。

 

 

※「そうきたか!」というリフレーミングの言葉を教えてくださったのは、福岡寿さんです。『授業づくりネットワーク』2016年春号での対談、是非お読みください!

振り返りジャーナル重版がきまりました。ありがとうございます。

おかげさまで重版が決まりました。

みなさんありがとうございます。

(同僚の渡辺さんがもうすぐ書評を書いてくれるそう。楽しみやらこわいやら…)

 

「振り返りジャーナル」で子どもとつながるクラス運営 (ナツメ社教育書ブックス)

「振り返りジャーナル」で子どもとつながるクラス運営 (ナツメ社教育書ブックス)

 

 

 振り返りジャーナルは、毎日書くのが大切。

日々の中に「振り返ってみたいなあ」というポイントがあるかどうか。

それは、日々の学びが充実しているかどうかともつながります。

ぼくらの仕事が問われる面でもあります。

 

ある日の振り返り。

『時をさまようタック』という本で、ブッククラブをしていたころです。

 

時をさまようタック (児童図書館・文学の部屋)

時をさまようタック (児童図書館・文学の部屋)

 

 

★今日のブッククラブはとてもよかったと思います。理由はみんな本の内容をしっかり読んできていて、話し合いがスルスル進んだし、もうとまらなかった。○○のとってもいい質問のおかげでみんなさらに深まって話し合うことができた。作者の気持ちになって「どうしてこんなストーリーにしたんだろう。」

「どうしてこんな結末にしようと思っているんだろう」

などといった話し合いをしました。
他に特によかったのは、登場人物になりきって「自分だったらどうする?」「どうしてこんなことしたんだろう?」「わかるー!」「どうしてこうしなかったんだろう?」「〜だからじゃないかな?」
「なるほど〜!だったら賛成だな」など、自分だったら、がたくさんでたブッククラブでした。
人の幸せってなんだろう。限りがあるから幸せってことはあるかもしれないな。

 

 

★今日のブッククラブは、とっても奥が深かったような気がします。
なぜかというと、タック家の行動で、メイがなぜ打ったのか、ということです。
このとき、メイはどんなことを思っていたのかを話し合いました。そこでぼくたちの班は、「ウィニーのため」という考えが出ました。
(コールバーグの)レベルで言うと「他者を思いやる」ですね。
だけど、自分で正しいと思ったんだとしたら、メイは少し考えたほうがいいなと思う。もしメイの行動が正しいということになったら、世界は成り立たないと思います。

世界がこれをうまく理解できたとしたら、きれいな世界ができると思う。でももう少し家で考えてきます。今日は家で哲学者になってきます。

 

同じ日でも算数の方が自分にぐっと迫ってくる人もいる。そのちがいがおもしろい。 この日の算数は「5分の1÷3は、なぜ分母に3をかけるか」をクラスで協同探究。


★算数で○○の説明を聞いて、わかったような気がしたので、自分なりにちょっと変えて考えて見ました。
でも算数って難しいところがおもしろいと思います。特に、わからないところを自分たちの力だけでどうにかしてわかるようになるっていうのが、おもしろいです。                               

 

★私は、今日の算数めっちゃ楽しかった。
 だって5分の1÷3のやり方を、○○と考えていた。 そしたら、○○が来て「大丈夫?」と聞いてくれたしゅんかん、
「全然大丈夫じゃないから教えて-!」と言ったら、
「OK!」と言ってくれて助かった−!
 でもそこからすごいことになったんだ!
 話が止まらなくなって、ホワイトボードもいっぱい!
 すごかったよ。
 
 話がとまらなくなって、
 ブッククラブみたいじゃない?
 ○○も、算数にホワイトボード出して使うって、天才というか、さえてるなー!
 わかったしゅんかん めっちゃうれしくて信じられなかった。
 だから今度の算数も、こんな感じの算数にしたいな−!  

 

その日1日、あの子はどんなことを考え、感じていたんだろう。

放課後、そんなことを想像しながらジャーナルを読む時間は、ぼくの大切な時間でした。ひとりひとりの成長のストーリーが紡がれていく感覚。

 

とはいえ、ジャーナルの限界も知っておきたい。

ジャーナルを通してみえてくること、みえてこないこと。

書けること、書けないこと。 

askoma.info

 

あすこまさんが書かれているように、

「教室という権力空間で、教師が生徒に振り返りを書かせる」ことに対する懐疑

ということは絶えず意識しつづけないとなあと思います。

読者であるぼくがいることで「書かせてしまう」こともたくさんあったと思うのです。

 

 
        

「おなじ」から「ちがう」へ。

 

「教室前面は子どもの注意がそがれないように掲示物を最低限に抑えましょう。」

 


これがユニバーサルデザインか。うんうん。そうかそうか。・・・・・ん?

学校現場でこの言説があっという間に広がっていくなか、ボクはずっと違和感が残っていた。なんか違う気がすると。

それで軽やかに取り合わないでいた。

 

 


そもそもこの提案の前提はなにか?それは「全員前を向いて先生の話を聞いて学ぶのがデフォルト」ということだ。盟友、KAIの言葉で言えば「後頭部凝視型授業」。いや、「一斉授業が悪い」とかそういうことを言っているのではなく、これまでの一般的な授業形態、教室のあり方に、子どもたちが合わせていくという方向がおかしい。

あわせることへの「困難」を取り除く為の手立て。教育におけるユニバーサルデザインの提案は、ボクが知っている限りではそういう方向性のものも多い。

 

「同じ」にするための工夫や手立て。


しかしその「困難」は誰が作り出しているのか?その視点が欠如したユニバーサルデザインは、もしかしたら学校や教室が作り出しているかもしれない「困難」にどうやって付き合わせるかに終始してしまう。みんなが「参加」できる学びとは?学びの場とは?視点を変えて考えてみたい。アイランド形式の教室だったら?いや学ぶ場所を自分で選べたら?学びが自分のペースだったら?一人一人の「ちがい」に応じられる学びの場とは?それを支えるコミュニティとは?

そこから問いを立てて、そもそもから考えていく。

 

 「ちがう」からスタートしてみよう。

 
書くのは簡単。実現は難しい。おもいっきり自戒を込めて書くが、教室単位ではダメなんだ。それは次年度に、かえって「学びにくさ」を生み出しかねない。自身の関心である学級経営で考えると、学級単位での学級経営を考える時代はもう終わりに来ているのだと思う。そもそも毎年振り出しに戻っているようじゃだめなんだ。そこに歩み出さなければ。

子どもの育ちを単年で考えるなんて大人の都合に過ぎない。


大学に来て3年目。たくさんの教室や学校におじゃまし、先生方と話し、文献を読み、ようやくそこに腹を決めることができはじめた。そのためにボクは小学校現場を離れ、ここにいるのだと思う。自身がやってきたことも批判的に検討し直さなくてはならないのだと思う。


だからといって、ただ「学校全体であわせればよい」という話ではない。それではあっという間に管理的な形骸化が起きるし、現に多くの学校で起きていて、子どもたちは(先生も)窒息しそうになっている。教師・学校都合の「共通理解」という名の形式的な管理。

 

そもそもの学校のビジョン、学習者観、学習観からの丁寧なスタートが必要。

そして、自由な試行錯誤を大切にする。

なにがいいかは事前にはわからないからだ。

 

軽井沢風越学園設立のプロジェクトにじっくりじっくり取り組みながら、ぼくらは、「新しい『普通』の学校」の情景をていねいにていねいに描いていく。

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『学習原論』その①

今日より行き帰りの電車で『学習原論』を読み始めました。

 

学習原論 (1972年) (世界教育学選集〈64〉)

学習原論 (1972年) (世界教育学選集〈64〉)

 

 木下竹次。大正自由教育を代表する実践家であり研究者。

この本がでたのは大正12年。1923年です。ほぼ100年前です。

Amazonの中古87000円って・・・・・ 

 

自序からグイッと攻めてきます。

 

学習は学習者が生活から出発して生活によって生活の向上を図るものである。学習は自己の発展それ自身を目的とする。異なった遺伝と異なった環境とを持っているものが、機会均等に自己の発展を遂げ自己を社会化していくのが学習である。学級的画一教育法を打破した自律的学習法は、いずれの学習者も独自学習から始めて相互学習に進み、さらにいっそう進んだ独自学習に記入する組織方法であって、実に性質能力の異なったものは異なったように活動し、しかも、自由と協同とに富んだ社会化した自己を建設創造しようというのである。教師は学習の指導者でまた共学者である。環境に順応しさらにこれおを創造することは自己の創造発展と同一事実である。学習すれば師弟ともに全自己を活動させてともに伸び、ともに歓ぶことができる。

 

教師の役割を指導者であり「共学者」と位置づけ、「ともに伸び、ともに歓ぶ」というあり方は、苫野一徳さんのいう「協同探究者としての教師」と同じ。いきなりスタートからしびれます。

 

第1章、「序論」では、教師についてこう喝破しています。

 

教育本来の意義は引立てることと取り除くことだ。すなわち教育は外部からの憂患を除去し、児童固有の本性を発揚することである。かくのごとき作用をする主人公は元来児童自身であるべき筈だが、従来は教師が余りに深入りして自分が主人公になった。そのためにかえって教育の効果を十分に挙げることはできなんだ。

各児童は各自の個性を基礎とし、自分の環境に依拠して種々の経験を積み、工夫創作を為し、よかれ悪しかれ、自分でなくては辿ることのできない道を辿って、人間固有の本性を発揚し社会に貢献していく。

自律的学習法の真髄は児童が本来具有する所の創作性自律性を発揚することだ。児童には本来伸びる力がある。教師はあまりに自分の力を過信して余計な干渉をしてはならぬ。

 

身が引き締まります。

「取り除くこと」というのはその通りだなあと思います。

教師がよかれと思ってやっていることが、木下に言わせると「〜いたずらに外部の権威に服従して課業に努める知力的奴隷を作る」。

教師が学習者の学習を阻害しているというのは耳の痛い指摘です。

 

丁寧に読み進めていこうと思います。

 

 

 

クラスがワクワク楽しくなる!  子どもとつくる教室リフォーム

クラスがワクワク楽しくなる! 子どもとつくる教室リフォーム

 

 

ねっこ。

わけあって、自分の振り返りを読み直している。

自分で読んでいて、あらためて考えるきっかけになる文章に出会う(メタ省察?)。

その意味でも、振り返りを書くことって大事だなんだなって思う。

ついつい忙しさにかまけて、丁寧に考えることをおろそかにしてしまう。

忙しいときこそ、立ち止まること。

ていねいに生きていこうと思う。

  

*  *  *

 

先生にとって大切なことってなんだろう? 

「先生=ファシリテーターである」。

これはボクがここ数年言ってきたこと。

ファシリテーションは技術。 ここはボクのとりあえずの前提条件。 技術、としないと身につけることができないので まずはそう言い切ることにしてきた。

しかし、一番大事なことは技術や方法として切り出せるものではないんだとも思う。それは他ならぬ「わたし」が身につけるものだから。
誰が何を身につけたか、なんのために身につけたのか、っていうことがとても大事にな る。
ファシリテーションはややもすれば、大げさに言えば人を殺す道具にだってなる。

その昔。仮説実験授業にはまり、子どもたちが夢中になって科学の世界に浸っていくのを見て素晴らしいなあと思って続けてきたけど、あるときに危うさを感じたんだ。 そのときに感じた危うさ、20代半ばの当時に感じたのは「巧妙に 『原発は安全で世界最高の発電システムである!』という授業書を作って、巧みに問題を配列し、『ある事実』だけを伝えていけば、素直に『そうなんだー!』と信じる子どもたちを作ってしまっている」 ということ。原発はあくまでも例。20代前半の関心だったので。
仮説実験授業の先生の役割も、今思えばファシリテーター的。でも授業のデザイン次第で巧妙な誘導ができる。だから離れたんだよな。実は学習者の主体的な思考力が育っていないんじゃないかっ て。知識は空から降ってくる、事実は決まっている、という受け身の人を育ててはいけない、と。

ファシリテーションだって同じような危険性をはらんでいるとボクは思う。参加者主体であったらいい、というものではない。

どんな技術やスキルも「なんのために」がその価値を規定するし「だれがつかうか」もとても重要な要素だ。
となると、その先生の、 「わたしはだれか」 「わたしは何を大切にしているのか」 「わたしは何が好きか」 「わたしは何をしたいと思っているのか」、「わたしは幸せか。わたしは何が幸せと感じるか。」 「わたしは、どんなふうに暮らしているか」

みたいなことって、些細なようでとてもとても大事だ。

 

それはもはや先生として、というより一人の人として。一人の市民として。
「わたし」とは? という自分が大事なんだ。
それは素晴らしい人であらねば、ということではなく。
わたしはわたしを知っていて、そんなわたしを「なかなか悪くないな」って思えてるかってことなんだろうと思う。

 

一方。
そのまま素で先生として立つわけではない。

そこは、プロとしての「大切なこと」がある、と思う。

例えばなんだろう? 

「なんのために先生になったのか」

「先生としてのミッションは何か?」

「自分の理想の先生像をどう描いているか?」

「学習や、人の成長をどう考えているか」

 

「どう成長してきているのか。自分を磨いてきているのか。」

「めざす教育、めざす先生像は?」

「めざす社会は?」

仕事としてのねっこ。 わたしとしてのねっこと、プロとしてのねっこ。 これは全くのイコールではないけれど、それは積集合の ように共通しているところがあるはず。

その共通部分が大きければ大きいほど楽なのかな。 いや、共通部分が徐々に大きくなっていく、というイメージだろうか。
それとも 「わたし」のうえに「先生」が乗っかる感じ?

 

いずれにしても、この2つを丁寧に見つめてみること。そしてこの2つを磨きつづけることが、なんというか、先生としての「最低条件」なのではないだろうか。

その上で。 それを実現するために、勉強する。 練習する。 技術を身につける。 学び続ける。体験する。振り返る。 自分の強みや得意を生かす。 人に会う。 
ここにファシリテーションという技術が生きてくるはず。
それに魂を入れるのはやはり「わたし」なのだろう。

ある人の実践を見ていて感じたこと。技術は一生懸命練習して、ずいぶん身についてきている感じがする。インストラクションも上手になったし、ポジティブフィードバックの練習をしていたし。振り返りもよくやっている。 サークル対話をしてみたり、ホワイト・ボードミーティングをしたり、PAをやったりと「できる」 ことも、きっと同年代の先生たちより多いだろう。 アセスメントの練習もしているから、「みえる」ことも増えてきている、と思う。 でも。 ねっこが弱いんだ。ねっこが細い。
だからせっかく上に載せた技術が、ぽろぽろとこぼれ落ちてしまうんだ。 みえることも、できることも、機能しきれない。 がんばっているのに、成果につながっていく感じがない。 それはつらいだろうなあ、と思う。

じゃあ、そのねっこはどうやって育てていけばいいんだろう。

 

ボクの場合、まだまだ道半ばであり、まだまだまだまだなんだけれど、
一番は、ボク自身がおもしろがりで、楽しいってことをエネルギーになんでもやってみる、おもしろがってみる、っていうのが大きいと思う。実践してみて考えることが、自分のねっこを育てる根本になっているなあ。


自分が努力して、痛い思いも山のようにして「どんどん変わっていった」という自覚があるから、「人は変わっていく」ということを体験的に信じていること、は大きいなあと思う。その意味では先生になって、「がんばってきたこと」「学んできたこと」「練習したこと」「体験したこと」の積み重ねで今の自分があるという自負がある。

内省的な性格であることも「ねっこ」なんだろうなあ。 昔はそれはボクの「めんどくささ」だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。 それがある意味この仕事には向いているんだ。 その内省も、思考の深みにはまっていく感じではなくて、ポジティブに変換しやすいのは気質なのか練習の賜物なのか。

 

とはいえ、まだまだなことも山ほど。

 

 

 

ボクは、ちょんせいこさんと一緒に「標準化」を大切にしてきた。 それは大切なことだとと思う。 標準化しないと、人が使える「技術」にならない。それは例えば医療現場なんかは「技術」として 習得可能なものにする、というのは圧倒的に大事なはず。違うかな?

その上でその技術を使う「人」をどう育てていくか。
その技術を更新していく人、現場にあわせて アレンジしていく人、産みだしていく人をどう 育てていくか。 そこもかんがえて、やっていく時期に来たと考えた。技術をアウトプットしてきたボクの責任として。

「子どもが好きだから先生になりました」 ってよく聞く。 いいことだし、きらいじゃあ話にならないし、ボクも好きだけれど。 でもそれだけだと子どもを抱え込んじゃう。 一番は、人の成長に貢献することが好き。とか。 人の成長を見るのがすき。とか。 人はちからがある。人には可能性がある、みたいなことを信じていることが大事なんじゃないかな。何より学び続けること、自分を問い直し続けることができるか。そして、自分が「消える」ことを当たり前と思えるか。自分の承認欲求を満たすために子どもを「使う」ことをしてしまわないように。

 

そして、よいモデルに出会うことも、もしかしたら、重要な一つなのだと思う。 それがないと、がんばる方向、学ぶ方向が定まらない。 いい人だけれど、先生としては悪くないだろうけれど、でも成長が止まっている、変わらないと言う人がいる。

成長すべき方向性を失っているんだよな。 だから、よいモデルを知っていることはボクが考えている以上に大事なのだろうと思う。

モデルを知っていると、それが評価の指標にもなって、今の自分もメタに見えやすくなる。 ボクにとっては、例えばざっくりいうと仮説実験授業時代は先輩の実践だったし、 その次に出会ったステキな同僚、当時自由の森校長の木幡寛さん、明治大の齋藤孝さん、国語専科教室の工藤順一さんに出会う。 その後ワークショップに参加し、いろいろなファシリテーターをみてきた。その中にはPAの難波さんや林さん、そして長尾彰さんがいた。 そのように「人」に影響を受ける時代から、中川綾さんに出会い、フレネやイエナプランのような教育のかたちや「価値」にモデルが移行していった。福祉領域でも活躍していたちょんせいこさんにも出会い、社会 と学校のつながりをリアルに技術でつなげることを見ることができた。

 

常にボクにはめざすべき方向、みたいなものがあったし、そこに向けて、けっこう愚直にやってきたなあとも思う。実践を通して学びまくってきたなあと思う。 モデルに出会うこと。それはできるだけ「リアル」なほうがいい。その意味でオランダにいったのは大きかった。

 

あとはなんだろうな。 学校という一つのコミュニティだけに属していない。いくつかのコミュニティに所属している自分である、ということかな。 例えば職場。家族。サークル。趣味。地域。 研究会。NPO。いくつものコミュニティ に所属していて、それぞれいろんな「自分」 がある。その共通部分としての自分。

それによって自分にバランスが取れていく。学校外に出て行くことが「先生」には特に重要だ、と思う。

 

 

とはいえ、いくらいいモデルに出会っても、

私たちは「だれか」にはなれない。

「だれか」をめざしていてもしょうがないんだ。

わたしはわたしとして、どんな人になりたいのか。

わたしはわたしとして、なにをめざすのか。

わたしはわたしとして、どんな一歩を踏み出すのか。

 

 

 

     *  *  *

 

最後に戻るのは「わたし」だ。 

今やれていないことは弱みではなく、成長のポイント。

苦しくても向き合おう。痛さこそがぼくを成長させてくれた。

なのに今は痛みから逃げている自分を感じる。よく見せたい自分を感じる。

ボクも46才とまだまだ若い(当社比)。

これからもたくさん出会い、考え、対話し、体験し、振り返り、変わっていきたいなあ。

 

 

恐るべし女性専用車両。

今日は朝から神奈川出張。

 

最近仕事が立て込んでいて、ついつい寝不足気味。

電車に乗るとぐーっと寝ちゃう。

昨日に続いて今日も寝過ごしてしまい、

降りるべき駅から30分も遠くへ行ってしまった。

「やばい!待ち合わせに遅れる!」

と、電車を飛び降り、向かいのホームに来た電車に飛び乗った。

幸い、始発駅で電車は空き空き。

「ふう、なんとかギリギリ間に合いそうだ。早めに出発してよかったあ」

とベンチの真ん中に座る。

よかったよかったと、心拍数があがって目が冷めたところで、おもむろに本を取り出した。読みながら電車は進む。ちょっとずつ人が増えてきた。

ふと気づくと両隣女性。めずらしい。

前の座席を見ると女性が多い。

「やけに今日は女性が多いな−」

そんな日もあるんだな。まあおっさんばかりよりいいな。

と思って本に戻る。

待てよ。

電車の中を見回してみる。

女性しかいない。座っている人も立っている人も女性ばかり。あれ?男はどこだ?

あれ?・・・・・もしかして。

うむ。女性専用車両だった。

 

やばい。なぜ気づかなかったんだ、おれ。50対1じゃないか。焦る。でも焦っている感じを出すのはまずい。なぜまずいのかわからないがまずいと思う。

落ち着け、落ち着けおれ。まずは何事もない感じにしよう。いや、そのほうがあやしいのか。でもあたふたすると注目を集めすぎてしまう。じゃあどうすりゃいいんだ。両隣に座っている2人は勇者の扱いを受けているのではないか、もしかして。まず逃避だ。とりあえず本に戻ろう。

次の駅まで本を読み続け、駅に着いたところで、非常になにげないかんじで次の駅で電車をゆるりと降り、非常になにげない感じで隣の車両へ移動し、見えなくなったかな、と思ったところで、Bダッシュして隣の隣の車両へ駆け込んだ。汗がいっきに噴き出た。汗もよくなにげない感じで待っていてくれたと、汗腺に感謝。

 

どう思われていたんだろう、なんで誰も教えてくれなかったんだろう、といろいろな思いはうずまくが、おれはおれだ。

どんまい、おれ。