いわせんの仕事部屋

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「岩瀬さん、いい職場をつくれない人は、本当の意味でいい学級はつくれないよ」

初任の学校の5年間。
ボクは「自分のやっていることが正しい」と無邪気に信じ、同僚や管理職から何かを言われても、自分のやりたいように学級で実践し続ける教員だった。自分の学級さえよければそれでよかった。自分さえよければそれでよかった。当然職場では浮いていた。
普通は職場で浮くとつらい。
しかし、「学校外の学習サークル」という居場所があったのでボクはわりと平気だった。
そこで勤務校を批判していればよかった。
 
 
20代中頃。
初めて異動した学校にSさんという実践家がいた。当時50歳ぐらいで研究主任だった。
当時ボクは教員6年目。実践がおもしろくなってきた頃で、学級経営や授業づくりに夢中になっていた。学外の学習サークルに参加して資料発表することも増えていて、明らかにボクは天狗になっていた。自分はこの職場の中でいちばん勉強している。外にも学びに行っている。本も読んでいる。にもかかわらず同僚たちは学びにも行かず、今までのことを繰り返しているだけではないか。教育委員会もおかしい。管理職もおかしい。学校の現状に落胆し、批判的であることがボクの中の正義だったのだ。
 
みんな何もわかっていない。
 
そんな中、Sさんに出会った。彼は全生研(全国生活指導研究協議会)の実践家として学習サークルも主催されている有名な実践家で、同じ職場でそのような人に出会ったのは初めてだった。
「岩瀬さん、どんな実践をやっているの?」
最初の飲み会でSさんにあいさつに行くとこう質問された。
ボクは意気揚々と自分の実践を開陳し、
 「初任校では、けっこう同僚とぶつかってました。まあ目立っちゃってましたから。ほんと嫌になっちゃいますよ。校長も何もわからないくせに注意ばかりしてきて。何にもわかっちゃいないですよね。あはははは」
うんうん、と聞いていた彼は一言こう言った。
 
 
 
「岩瀬さん、いい職場をつくれない人は、本当の意味でいい学級はつくれないよ」
 
 
 
その後飲み会の度に激論になった。
「いや、まず担任は自分のクラスに責任がある。順序が違う。」
「岩瀬はわかっていない」
毎回明け方まで飲んだ。
 
ボクはしばらくSさんの言葉の意味がわからなかった。
そのことの意味が少しずつわかってきたのは、その学校の職員室の中に、初めてボクの居場所が生まれた頃だった。
彼は、本当に職員室を大切にする人だった。学年はいつも一緒に実践。
「担任同士は夫婦みたいなもの。いっぱい話して協力していい関係を作って一緒に子どもたちを育てていくんだ」。
当時のその学校は特別活動の研究に取り組んでいた。
学校の「子ども祭り」を創り上げるプロセスで、彼は主任として職員を巻き込み、保護者を巻き込み、「みんなで行事をつくる」プロセスをていねいにつくり、職員室を一つのチームへとファシリテートしていた。
「岩瀬さん、ステージで子どもと地域の人の希望者の出し物大会やりたいんだよね。企画お願いしていい?」
「岩瀬さん若いからどんどん動いてくれて助かるよ」
いつの間にかボクもチームの一員になっていた。
この学校に関わっているすべての人の力を信じている人だった。ボクは保護者の方々からも大切にされた。保護者の方々もSさんに大切にされているのを実感していたからだ、と今はわかる。
 
職員で沖縄へ行ったり、オーストラリアに旅行したりするほど関係がよく、困っている人にはいつも誰かがサポートに回るのが当たり前の職員室だった。跳ねっ返りだったボクの実践も、1年、2年と経つうちに、「岩瀬さんやっていることおもしろいねー!教えて教えて」と先輩の先生が聞いてくれた。Sさんがつないでくれていた。学年で一緒に実践していく、ということが文化になっていく学校だった。
「みんなの学校をみんなでつくる」が原則の学校。ずっとここで働いていたい、そんな職員室の中で「自分は大切にされている」と体感したボクは、Sさんの言葉、
「岩瀬さん、いい職場をつくれないひとは、本当の意味でいいクラスもつくれないよ」
の意味が、その学校に異動して3年かかってようやく実感を持って理解できるようになった。
 
 
 
 
何のために学校はあるのか。例えば仮に
「その学校に来ているすべての子に居場所があり、その安心な場で、他者と関わりながら、一人一人が成長し、自分の生きていきたいように生きられ、お互いの生き方も尊重しあえるようになるため」(自由とその相互承認)と仮定しよう。
となるとだ。まず学級を、というのは、スタートから視点の置く場所を間違えていたんだ。
 
 
子どもたちは6年間かけて成長していく。いや一生かけて成長し続ける。
だからこそ「学校」はどんな場であるべきか。
目指す教育を学校で丁寧に共有していく。職員が対話を重ね、学び合い、エンパワーし合う。学校に関わる人みんなでコミュニティを創っていく。
そこがスタートなんだと彼は伝えたかったのだと今ならわかる。
 
 
 
職員を信じることは、人の力を信じること。
そして、それは子どもの力を信じることにつながる。
2つは入れ子構造だ。
職員の力を信じることができないならば、本当の意味で子どもの力も信じていないのだ。
何もわかっていないのはボクだった。
自分という狭い世界の中で世の中を見ていた。
Sさんの言葉が今になって、グッと染みてくる。
 
 

学習の個別化についてつらつらとメモ。

お世話になっている、藤原さとさんのブログが興味深いです。

kotaenonai.org

 

リアルな体験談だからこそ、個別化のよさと課題がよく見えてきます。

ありがたい。

以前、学習の個別化の実践で考えられる問題点について、以前4点にまとめました。

 

①「孤立化」が起きやすいこと。

「わからない」が「わかる」に移行する際に、自分の力以外になくなってしまいます。

行き詰まってしまったときどうしようもなくなってしまう。

その学びの環境は必ずしも安心・安全とはいえません。

 

②実践の方法によっては格差の拡大につながること。

「個人の責任で個人で進め個人で責任をとるモデル」になりかねません。

 

③学びのブレイクスルーが起きにくくなること。

 

④「自由の相互承認の感度を育む」機会を失ってしまう可能性

 

iwasen.hatenablog.com

 

これらのことは自分の実践から気づいた点なのですが、これはもうずいぶん前からわかっていたことのようです。

1920年代に実践されたドルトン・プラン。

学習の個別化の先駆的実践です。わかりやすい解説は苫野さんのブログへ。

ittokutomano.blogspot.jp

すごいですよね。1920年代ですよ。

大正時代は日本にも紹介され、広がっていきました。

パーカーストも何度も来日したようです。実践もされていたそう。

 

そして学習の個別化の問題に既に実践的に気づいているんですよね。

佐藤(2006)「宮城県におけるドルトン・プランの紹介とその反響」
http://www.sed.tohoku.ac.jp/library/nenpo/contents/55-1/55-1-14.pdf

によると、大正時代の成城学園でのドルトン・プランの実践の時に既に、学力差の拡大が既に問題になっていたそうです。

 

また、パーカーストがアメリカで実践している頃、教科の枠組みはそのまま保持しつつ(教科中心カリキュラムの保持)実践しうることへの批判もあったそうです。

で、方法上の自由は確保されている学習事項の自由が確保されていないとの批判から、キルパトリックのプロジェクト・メソッドによって修正・補完される必要があるという議論が当時からあったと佐藤は述べています。

 

ひえーです。

今ボクらが考えていること、実践していること、そこでぶつかっていることってとっくにその時代に考え、実践され、ぶつかっているんですよね。

 

さて。

ICTの普及、人的、物的リソースの充実により、再び実践の土壌が整っているのが今だとボクは考えています。

先に挙げたような問題点、当時クリアできなかった課題をどのように超えていくか。そのヒントは、今の日本の実践の中にいくつもあります。自由と協同をどのように融合していくか、ですね。

次は具体的なカリキュラムのイメージを書いてみたいと思います(いつかに続く)。

 

対立を力に

ある年、高学年の1学期に「対立解決ファシリテータープロジェクト」に学年で取り組んだ。
学校生活、いや学校生活に限らず人々が生活していると必ず起きる「対立」。
世界にも「対立」は溢れている。
対立は必ずしも悪いことではなく、
対立から何かが生まれることもある。

 

対立を力に。

 

まずは自分たちの身近に起きる対立に向き合い、
解決に向かって行動できるファシリテーターをめざそう!
とプロジェクトをスタート。

 

大まかに扱った内容は以下の通り。

 

傾聴
オープンクエスチョンで起きたことの理解を深める方法
聴いて書く(ホワイトボード・ミーティングで対立の可視化)
Win−Winの対立解決
様々な解決法
対立のエスカレーター
ロールプレイ場面で解決策を考える
絵本で対立の分析
対立解決のロールプレイ
対立が起きたときにどうファシリテートするか?
実際の場面でファシリテートしてみよう!

 


あまり時数がとれなかったのでやや駆け足になってしまったが、

一通り体験したところで、

「では9月にこの学習が再開するまでの宿題。実際に対立場面にであったら、ぜひファシリテーターしてみてください。もし自分が対立の本人になったら、だれかにファシリテーターを頼んでみてください。どちらかを体験してみてね。ただし、わざわざ対立起こすことないよ 笑」

で実際の場面での活用へ。

 

1学期最後のころ。
通学班でのトラブル解決に、4人が乗り出した。
「ボク達で解決するからいいよ」
休み時間に1〜6年生の登校班の子達を集めて、ミーティング開始。

その通学班の担当の先生と一緒に見にいった。2人で「口を出さず最後まで見守ろう」と約束。30分を経て解決策の決定まで見事進んだ。

 

学級でも、
「他のクラスの○○とけんかみたいになっちゃって。
解決したいから、だれかファシリテーターやってくれない?」

と朝のサークルお願いがでた。
「あ、やるよやるよー!」
たくさんの希望者のなかから、本人が3人を選択。

さっそく休み時間にホワイトボードを囲んでミーティング開始。
「解決策まで出たので、○組に行って,担任の先生に事情話して、○○と話し合えるようにしてくるね」
と他クラスの担任のところへ。

後から聞くと何とか解決したようだ。

いつも全員で解決を目指す必要はない。インフォーマルにその場その場で対立に向き合う構えができていればいい。そのためのちょっとしたスキルを持っていればいい。何より「自分たちにはよりよくしていける力がある」という原体験を積み重ねられるといい。

 

もちろんうまくいったことばかりではないし、相変わらず、
「せんせー」なんて言いに来る人も学年ではけっこういたのだけれど、
こういう成功体験が一つのモデルになっていくといいなあと思っていた。

 

そして2学期。

子どもたちがファシリテーターになるのがあたりまえになってきた。
やればやるほど上手になる。
これは大人も子どもも同じこと。

機会が頻繁にあること。
失敗okなこと。
フィードバックがあること。
達成感があること。
成長している実感があること。
「自分も困ったときに周りが力になってくれる」
と確信できること。

これがコミュニティーのベースになる。

私の自由とあなたの自由がぶつかったときに、自分たちで「相互承認するためにはどうすればよいか」を考え続け、試行錯誤し続ける。
一人ひとりがファシリテーターになる意味だ。

 

先生だけがファシリテーターになっても仕方がない。それは結果として依存を生みかねない。学習者一人ひとりがファシリテーターになる。
それが、よりよい学級、一人ひとりが自分も他者も最大限に尊重するコミュニティーへの一歩。教員も協同探究者として悩みつつ進んでいく。

 

 

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学習者側から授業を見直す。

2016年12月21日に中央教育審議会より次期学習指導要領の答申が正式に公開されました。諮問から答申まで2年に及ぶ議論の集大成です。2020年から実施される次期学習指導要領の理念となるもので、なんと243ページからなります。

 

蛇足ですがこの答申は必読です!このページに整理されています。

教育に関わる人すべての人に読んでもらいたいです。

それにしてもこのように補足説明付きでまとめてくださっているのは本当にありがたい。寺西さん、ありがとうございます。

ictconnect21.jp

 

ちなみにボクは年末、ディズニーランドでビックサンダーマウンテンに並んでいるときに読破しました。243ページの内容にしびれました。

この答申でボクが注目しているのは、コンテンツベースからコンピテンシーベース、すなわち資質・能力の枠組みで教育課程を再定義する必要があると指摘しているところです。資質・能力は3つの柱に整理されます。

①「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」
②「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」の育成)」
③「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」

今まではどちらかといえば「教師が何を教えるか(何を教えたか)」にフォーカスが当てられていました(教授主義)。ですから

ちゃんと授業で教えたのにテストできてないなあ。ちゃんと聞いていなかったな」

等という言葉が職員室で聞こえてくることもあったわけです。

今回コンピテンシーベースへとカリキュラムが改革されることに伴い、これから問われるのは、学習者が「何を学ぶのか」「どのように学ぶのか」そしてその結果「何ができるようになるか」へと軸足が大きく変わるのです(学習主義)。

徹底的に学習者、つまり子ども側から授業やカリキュラムを考え直そうという提案です。

 

答申では「主体的・対話的で深い学びの実現」が提案され、授業改善の視点としてアクティブ・ラーニングが取り上げられています。

では「主体的・対話的で深い学び」とは具体的にどのような学びなのでしょうか?これについて答申には以下のように書かれています。

 

①学ぶことに興味や関心を持ち、自己のキャリア形成の方向性と関連付けながら、見通しを持って粘り強く取り組み、自己の学習活動を振り返って次につなげる「主体的な学び」が実現できているか。

子供自身が興味を持って積極的に取り組むとともに、学習活動を自ら振り返り意味付けたり、身に付いた資質・能力を自覚したり、共有したりすることが重要である。

 

②子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ、自己の考えを広げ深める「対話的な学び」が実現できているか。

身に付けた知識や技能を定着させるとともに、物事の多面的で深い理解に至るためには、多様な表現を通じて、教職員と子供や、子供同士が対話し、それによって思考を広げ深めていくことが求められる。

 

③習得・活用・探究という学びの過程の中で、各教科等の特質に応じた「見方・考え方」を働かせながら、知識を相互に関連付けてより深く理解したり、情報を精査して考えを形成したり、問題を見いだして解決策を考えたり、思いや考えを基に創造したりすることに向かう「深い学び」が実現できているか。

 

「アクティブ・ラーニング」とはこのような学びを実現するための授業改善の視点であり、ペアワークを導入したり、ホワイトボードを使う=アクティブ・ラーニング、というわけではないのは大切なところ。例えば一人で本を読みながら深く考え、その考えをまとめている時も「アクティブ」であると言えるわけです。特定の方法や考え方ではないのですね。

 

となると。

「アクティブ・ラーニングの視点」とは、常に学習者側から学びを見直してみようという提案と言えるのではないでしょうか。学習者一人ひとりに「主体的・対話的で深い学び」が実現しているのか。

言うはやすし横山はやすしですが、だからこそ楽しい。チャレンジングです。

答申17ページには

「全ての子供は、学ぶことを通じて、未来に向けて成長しようとする潜在的な力を持っている」

と書かれています。

私たちはここを出発点に、その力が発揮される授業・学校を根本から考え直していきたい。大人である私たちがその未来を探究し、試行錯誤し続ける姿そのものが、子どもたちを主体的・対話的で深い学びへと誘うのではないかと思います。

 

続く。

きょうしつでの話し方。

授業の中の子どもたちの「話し言葉」。

「〜だと思います。その理由は〜」

のような話型表と言われるものが教室に貼られていることもあります。

少なくともボクが勤めていた埼玉県西部地区では、このような教室ならではの「話し方の型」が重要視されてきました。ボクが勤めた4校ではどこにも貼ってあったなあ。

 

○○さんに反対です。その訳は〜

○○さんにつけたします。〜

 

のような。

うちの娘(小3)も、家で一人学校ごっこをしているとき、

「はい!わたしは〜だと思います!そのりゆうはあ〜」とデフォルメして遊んでいます。

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でもちょっと立ち止まりたい。

これって不自然では??不自然だからこそデフォルメしたくなるのでは?

これらの強制が、結果として子どもたちの「対話からの逃走」を促してしまったのではないか、とさえ思っています。

 

ボクは現場にいるときに、サークル(円)になって話す「サークルタイム」を大切にしていました。例えば、朝集まると、「朝のサークルタイム」。1日のチェックインに、昨日あったこと、みんなで話したいこと、解決したいことなどを自由に話す時間です。このときに決定的に重要なのは「カフェのような雰囲気」。

数人でおしゃべりするような「おしゃべりモード」(仮)で話せるようになると、グッと話は深まり自然な対話になります。そうなるのにけっこう時間もかかります。

 

もちろんフォーマルな話し方も重要。

でも学校ではあまりにもそれが強調されすぎていないでしょうか。

 

学校の中でもっとインフォーマルな「普通の話し方」を大事にしたいと思います。

子ども同士でいる時間のほとんどを学校で過ごします。そこでどのようなコミュニケーションが行われているのか、あるいはその機会がほとんどないのか、ボクらはもっと真剣に考える必要があります。話し方は関係性と密接なつながりがある。ボクらはそのことにもっと自覚的でありたい。です。

石井英真さんは、

「〜話し合い活動も書き言葉的な「発表」をメインに遂行されてきた、書き言葉優勢の教室のコミュニケーションに対し、即興性や相互に触発し合う偶発性を特徴とする話し言葉の意味を復権する」ことを「ことばの革命」と呼び、これからの授業で重要になると指摘しています。

「アクティブ・ラーニング」を生かしたあたらしい「読み」の授業:「学習集団」「探究型」を重視して質の高い国語力を身につける (国語授業の改革)

「アクティブ・ラーニング」を生かしたあたらしい「読み」の授業:「学習集団」「探究型」を重視して質の高い国語力を身につける (国語授業の改革)

  • 作者: 「読み」の授業研究会,阿部昇,加藤郁夫,永橋和行,柴田義松
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( 話はそれますが、この本に収められている石井さんの論文は必読です!)

もちろん話し方だけの問題ではありませんが、新しい指導要領で強調される「対話的」な学びを考える上で、子どもたちが教室で「どのように話しているか」にもっと注意を払いたいです。

話型表が、対話や学びの深まりを阻害していることは十分に考えられるわけです。

 

それにしても、あの「話型表」って、どこから生まれてきたのだろう??

 

 

 

 

 

 

 

今年1年お世話になりました。

2016年、大変お世話になりました。
年賀状を出すことをやめるようになって7年目になりました。
この個人的なつぶやきを持って、今年1年お世話になったお礼とさせてください。


東京学芸大学教職大学院で勤めるようになっておおよそ2年が経ちました。
戸惑いばかりだった日々から、この1年は教師教育に関わる楽しさを実感できるようになりました。

教員を目指す院生の皆さん、派遣でいらっしゃる現職院生の皆さんとの日々に
日本の教育の未来を感じる毎日でした。
人はいつからでも学び、いつからでも変わる。
そのお手伝いをできる毎日に、小学校現場とは違った楽しさと責任感を感じています。
人ってすごい。
授業をすることが本当に楽しいです。
みなさん、ありがとうございます。

 

 

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そしてボク自身、まだまだまだまだ学ばなくてはいけないことが山積みです。
教師教育に関わるとはどういうことなのか。
学校ってどういう場なのか。
次の1年も真摯に向き合いたいと思います。

 


今年もたくさんの場に立たせていただきました。
苫野一徳さんとの講談社の「教師の学校」をはじめ、様々な講座、

全国各地の学校、教育委員会での研修、野外活動指導者養成講座、
教師教育学会での共同発表などなど、それぞれ一生懸命つとめました。

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うれしかったり、くやしかったり、楽しかったり、かなしかったり。
ときには砂漠に水をまくような無力感にさいなまれたり。
思いがけずうまくいったり、力不足を痛感したり。
それでも場に立ってきたのは、その先にいる子どもたちに届くのではないかと信じているからです。

 

幸せな子ども時代が過ごせる学校、学級を増やしたい。
公教育が変わるきっかけの1つになりたい。

なによりボク自身が楽しい、幸せと感じられる学校をつくりたい。

そう思って進んできました。

 

とはいえ。
小学校現場を離れ、さまざまな場に立たせていただく機会が増え、
今のボクは少し「手慣れ」になってしまっているのではないか。
いかんいかんと感じています。
自分にできること、できないことはなにかに丁寧に向き合いたい。

いちばんうれしかったことは、
たくさんの人に出会えたこと。たいせつな人に出会えたこと。
つくづくボクは、人に生かされているなあ。

 

             *  *  *

 

さてもうすぐ来年です。
小学校現場を離れるとき、
「岩瀬さん、現場でやってきた実践の賞味期限は3年だよ」と、

尊敬する先輩にいわれました。いよいよその3年目を向かえます。

自分の人生の目的に向かって大きく一歩を踏み出すことにします。
これまでの集大成と、これからにつながる単著を書きます。
長生きできるよう、からだを鍛えます。
期待していてください。


私ごとで恐縮ですが、3人の子どもはげんきです。
長女は大学で、サークルも入らず学ぶことを楽しんでいるよう。

年明けにはラオスに2週間行くみたいです。

長男はサッカー部キャプテン。人へのやさしさと心遣いが宝の子です。

その良さを大切に進んでほしいな。

次女は念願の器械体操をはじめ、毎日全力で飛び跳ねております。

子ども時代を謳歌しております。

大晦日の今日。ラウンドワンにみんなで行ってて暴れてきます!

仲良しな兄弟でなによりです。

 

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みなさん、1年間本当にありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
そして、新年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

岩瀬直樹

 

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追伸。今年の本ベスト3。再読したくなる本たち。

 

深い学びをつくる: 子どもと学校が変わるちょっとした工夫

深い学びをつくる: 子どもと学校が変わるちょっとした工夫

  • 作者: キエランイーガン,Kieran Egan,高屋景一,佐柳光代
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2016/10/06
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 圧倒的ナンバー1。イーガンはやっぱりすごい。

 

イギリス教育の未来を拓く小学校 「限界なき学びの創造」プロジェクト

イギリス教育の未来を拓く小学校 「限界なき学びの創造」プロジェクト

  • 作者: マンディスワン,アリソンピーコック,スーザンハート,メリージェーンドラモンド,藤森裕治,新井浅浩,藤森千尋
  • 出版社/メーカー: 大修館書店
  • 発売日: 2015/07/01
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 教育書ではこれが一番でした。学校づくりを質的に研究した本。いい学校だ。

 

 

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する

  • 作者: ピーター M センゲ,ネルダキャンブロン=マッケイブ,ティモシールカス,ブライアンスミス,ジャニスダットン,アートクライナー,リヒテルズ直子
  • 出版社/メーカー: 英治出版
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 もう何度読んだかわからないけど、何度読んでもいい。

 

では!

 

『わたしたちの「撮る教室」』。

北海道の石川晋さんから写真絵本を送っていただいた。

石川さんの新刊だ。

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41名の中3の若者たちが写真家の小寺卓矢さんと、石川晋さんと1年間取り組んできた写真集づくり。

その取り組みの様子を通して、子どもたちの日常の様子を写真を通して描いた写真絵本だ。

 

「教室は雑木林」と石川さん。

雑木林の中で、まったくもって異質な人たちが、それぞれの大切なことを持ちあるいは探しながら、何に出会い、どのように暮らし、どのように笑い、どのように悩み、どのように遊び、自分というファインダーを通して世界をどのようにながめているのか。ながめようとしているのか。

そんなことを考えながら何度も何度もページをめくった。

ファインダーから世界を見る子どもたちの姿が美しい。

何度も目元がじわじわきた。

 

これは石川さんの学級づくりの本なのだと思う。 

学級づくりの本って、実は「どうすればつくれるか」を描くのものではないのだろう。

例えば、この写真絵本のように、

「そもそも学級ってなんだろう」という問いに寄り添ってくれる本。

教室の主体者である子どもの側から問い直す営みに寄り添ってくれるものなのだと思う。

誰が学級をつくるのか。

ボクらはそれを見失いがちだ。

 

たまたま研究室に遊びに来てくれていた現職の院生が、

「これは石川さんの卒業アルバムみたい」と。

うん、ボクも同じことを思いました。

 

この本から感じられる風がとてもやわらかい。

ひとつでも多くの教室に、やわらかい風が流れますように。

 

石川さん、この本大切にします。

『きょうしつのつくり方』への返歌として(勝手に)受け取ります。

 ありがとう。

わたしたちの「撮る教室」

わたしたちの「撮る教室」

 

 

ボクはこの絵本が好きだ。

だから多くの人にぜひ手にとってほしいです。

そして感じたことをじっくりと対話したいな。

教室ってなんだろう?を手がかりに。