振り返りにフィードバックするときの「問い」とは?
振り返りの大切が強調されて久しい(当社比)ですが、そうはいっても内省を深めるのってとても難しいです。自分の振り返りには、自身の経験から出来上がった無意識の信念や価値観「思考のクセ」のようなものがあり、そこを基点に自動的に判断したり解釈してしまうことが多々あります。「自動的」というのがこわい。よって、いつも「同じ落とし穴に落ちる」ことになりかねません。
自動化=悪いことではありません。専門性が高まるというのは、ある意味「質の高い自動化」が増えることでもあります。しかし、ショーン(2007)が指摘するように、
(専門性の高まりは)マイナスの効果をもたらすことがある。 ひとりの人間の中で専門分化の程度が高度になると、視野が狭くなる可能性がある
わけで、自動になっているところを意識化して「ほんとうにそれでよいのか?」を検討する必要がありそうです。
- 作者: ドナルド・A.ショーン,Donald A. Sch¨on,柳沢昌一,三輪建二
- 出版社/メーカー: 鳳書房
- 発売日: 2007/11/15
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とは言っても無意識なので気づきにくい。ですから、「他者からフィードバックをもらう」ことが重要になるわけです。とはいえ、他者が「そこは違うと思う!」などとフィードバックすると、
「なにを!!!」と心のシャッターが閉店ガラガラ〜になりかねません。フィードバックが「フィードアタック!」になるわけです。ボク割と得意です(涙)。ではフィードバックする側はどうすればよいのでしょうか?
その時の1つのヒントとして、「質問」を活用する、がありそうですす。
★内省や気づきを促す問い
例えば、メリアム(1998/2004)の研究では、内省や気づきを促す有効な質問として以下の4つをあげています。
①仮定的質問:「もし〜だったら」ある自体を推測する
②故意の反対の立場からの質問:「〜という人がいるけれど」とあえて相手と異なった立場を提示してその反応から深めていく
③理想的質問:理想的な状況を想像してもらい語ってもらう
④解釈的質問:暫定的な解釈を示してその妥当性を確認する
例えば振り返りに、子どもとのあるやりとりとその結果が書かれていたときに、「もしそこで叱らずに〜したら、どうなっただろう?」のように聴いてみる。褒めるのが大事だ-!を信じて疑わない場合、「ほめることが、かえってって先生への依存を生むっていう人もいるけれど、今回の場合それについてどう思う?」と聴いてみる。「最も理想的に進んだら、今日の出来事はどうなっていればよかったの?」「そのためにどんなことができただろう?」と聴いてみる。「今話していること(書かれたこと)って、〜っていうことでいいかな?(少し抽象化して整理)。それを改めて眺めてみると、あらためてどう考える?」とちょっとメタに見直してみる。どんな質問をするか、はかなり重要そうです。どれも、ちょっと引いて眺めてみる(メタに見直してみる)質問です。フィードバックする人の重要な役割と言えそうです。
★オープンクエスチョン
ちょんせいこさんと提案している「信頼ベースの学級ファシリテーション」の中にオープンクエスチョンがあります。振り返りは実は具体的に深まっていずに、表層的な事象で慌てて解釈している場合も少なくありません。そんな場合は、まずはオープンクエスチョンで階層を深めて具体的エピソードまでを言語化することが有効です。浅い階層での振り返りは浅い気づきになりかねません。オープンクエスチョンでまず深める。これが大事です(実感)。
よくわかる学級ファシリテーション?―子どもホワイトボード・ミーティング編― (信頼ベースのクラスをつくる)
- 作者: 岩瀬直樹,ちょんせいこ
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- 作者: ちょんせいこ
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★コルトハーヘンの8つの窓
コルトハーヘンのALACTモデルは、本を参照していただくとして、
- 作者: フレットコルトハーヘン,Fred A.J. Korthagen,武田信子,今泉友里,鈴木悠太,山辺恵理子
- 出版社/メーカー: 学文社
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この本の中で振り返りを促す8つの質問として以下をあげています。
自分は何をしていたのか?(DO)
自分は何を考えていたのか?(THINK)
自分はどんな感情をもっていたのか?(FEEL)
自分は何をしたいのか?(WANT)相手は何をしていたのか?
相手は何を考えていたのか?
相手はどんな感情をもっていたのか?
相手は何をしたいのか?
これまでの自身の振り返りや何人かの方の振り返りの伴走をさせていただく中で、意外と抜ける視点は「相手は」です。学校文脈で言えば「学習者」視点から振り返ってみること。例えば、
「その時、相手の子どもはどう感じていたんだろう」
「その時、子どもはどんなことを考えていただろう?」
と聞くことで、自身の振り返りに新たな視点がもたらされます。
以上、振り返りを深めるための「問い」について考えてみました。これらは、先日の横浜市立永田台小学校での校内研修の中でお話ししたこと、実演したことのバックボーンにあった内容を簡単に整理してみたものです。どんな質問が相手の内省を促すか、という視点は「自身の内省を深めるためにどんなセルフクエスチョンが有効か」という視点にもなりそうです。
学校現場(にかぎらず)において、これらを意識しつつ「振り返りに相互にフィードバックし合う関係」が作れると、相手の振り返りへの貢献ができると共に、自身の振り返りも深まりやすくなり一石二鳥!だと思っているのですが、どうでしょうか。ただここで考えなくてはならない問題は「宛名」問題です。誰かに読まれること前提の振り返りは潜在的に読者を抱えます、それが振り返りに与える影響は考えなくてはならないテーマですが、またそれは改めて。
なお、コルトハーヘンについては、中原さんのブログに要点が見事にまとまっています。
さあ、仕事に戻ろう。
よけいなお節介。
東京学芸大学、平野朝久先生の「子どもの見取り」の文章を読んで、もう7,8年前になる出来事を思い出した。(『学び手の視点から創る小学校の体育の授業』大学教育出版)
外で楽しそうにサッカーやSケンで遊んでいる子どもたち。その様子を2階の教室の窓から眺めているみさき。「外いって一緒に遊べばいいのに。一緒に行こう?」と言うボク。「こうやってみてるのが楽しいの」とみさき。
ふうん、そうなんだあと思いつつ、その時は正直よくわからかった。本当は入りたいのに「入れて」の勇気がでないだけじゃないかって。
そのみさき、教室でも一人で本を読んでいることが多い。休み時間はほとんど一人。ついボクは気になる。友だちと話せばいいのに。背中を押したくなる。
ある日の振り返りジャーナル、みさきはおおよそこんなことを書いていた。
本が大好きだと。そして本を読みながら、学級の人たちがおしゃべりしていたり、ふざけたりしてワイワイしているのが聞こえているのが好きだと。つい聴き入ってしまって、笑っちゃうこともあるんだけどね、と。
そのジャーナルを読んでから、あらためてみさきを見ていると、読書を楽しみつつ、教室のおしゃべりや空気を楽しんで、時々クスッと笑っていたりしていた。彼女は彼女なりの「心地よい、場への関わり」みたいなものがあるんだなあと。全然気づいていなかった。
ついついボクらは、ある種の期待や「こうあってほしい」という先入観メガネをかけて見てしまい、その見えたことで解釈、判断してしまう。でもこれって時と場合によっては、ひどいお節介になる。「学校的正しさ」が人を追いつめてしまう。
何でもわかった気になってはいけない。どんなに長い付き合いであっても、「本人にしかわからないことがある」ということを知っておかなくちゃいけない。本人の声を聴かなくちゃわからないことがあるという当たり前のことを、みさきのことを思い出す度に思う。勝手な解釈と過剰な判断。そんな失敗を何度してきただろうか。
「どの幼稚園でも、学校でも、先生の目からみると充実した活動をしていない子どもがきっといる。どんなに工夫し、試みても、おとなが期待するように活動せず、何もしていないように見える子どもがいる。
〜こういうときに、何かをさせようという考えを捨てて、子どもと一緒に何もしないで腰をおろしていると、その子どものまわりには、ひかえめで平和な空気がただよっているのを感じある。少なくとも、それまでのように、背を向けた関係ではない。
子どもによっては、おとなが考えるのとは全く違った形での自己実現の仕方があるのではないか。保育者や学校の教師は、身体の労働をもって子どもの生活を支え、実生活で子どもに対して力をもつ人であるゆえに、何もしないこと、空想にふけること、目的のない役に立たない活動などに価値を認めない傾向がある。力を出し、努力をし、物を獲得し、充実する人には価値を認めても、物を手放して無欲に生きることによって満足する生き方には、関心を払わず、否定する傾向がある。前者を実とすれば、後者は虚の世界に生きる人といってもよい。しかしよく考えれば、だれでも、その両方の世界をもっているのではないか。津守真『子どもの世界をどうみるかー行為とその意味−』NHKブックス
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シュタイナー学園へ。
今日は、大学院の授業で、学校法人シュタイナー学園に参観へ。高校生の頃『ミュンヘンの小学生』を読んで以来、一度は見たかったシュタイナー教育。ようやく願いが果たせた。小学校から高校までの12年間を一条校として設立を果たしたシュタイナー学園。「想い」が随所から伝わってくる学校だった。
学生の皆さんにとっては、教育の有り様には、実は様々あるのだということを実感した1日になったのではないかと思う。「こんなの普通の学校じゃ無理だよ」などという浅い感想に終わらず、そこで行われていることに関心を持って探求する姿に日本の教育の未来を感じる。
学校のある藤野の風景は風邪が美しかった。
晴れた日は。
理想と妥協
「理想を掲げて妥協する」
子どもからの痛烈なフィードバック
今から8年前。ボクが36歳の時。学級の子どもたちに「岩瀬の改善点」をフィードバックしてもらったことがあります。その時の痛烈なフィードバック。
・全員を見るってことかな。静かな人も、楽しい人も、悩んでる人も、うるさい人も、みんな平等に。たぶんまだ先生の力が必要な人がいると思うから。
これ、いちばんこたえました。ボクは公平に関われていなかったのだということを突きつけられた。このフィードバックがなければ、ボクの教師としての成長はずいぶん遅れていただろうなあと思うし、そもそも成長できていたかなあと不安になります。本当によく言葉にしてくれたなあ。生涯忘れられない言葉。
41歳の時。クラスのYさんに「イワセンってさ、ほんとみんなと仲いいよね」って休み時間の会話の中で言われたときに、ああようやく乗り越えはじめたって思えました。風景まで覚えてます、この瞬間。
・顔がいつも笑っていられるようになるとクラスのふんいきがよくなると思う。
真顔が怖い、とよく言われました。素に戻ると表情が怖いと。言われるまで自覚O。
意識しているときは大丈夫なのだけれど。お恥ずかしい話、笑顔になる練習をしました。下記の本を思わず買って、マジメに読んで通勤の車の中で割り箸を加えて口角を鍛えたり。これ、まじめに3ヶ月やりました。おかげで口角に力が入って笑顔でいる状態が自分で意識化できるように。数年後、「イワセンっていつも笑顔だよね-!」って学級の子が言ってくれたとき、ようやくここ乗り越えたなあって思えました。
「頭のいい人」より「感じのいい人」―人から好かれる「笑顔の技術」
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・クラスの一員なんだから、話し合いとかに入った方が上目線じゃなくていいと思うよ。
本当に核心を突くフィードバックをくれるものです。子どもって、大人の本気を見抜いているなあと。任せるといいながら、どこかコントロールしたい「わたし」みたいなのがばれていたんですね。これ、最後まで課題だったなあ。自分も学級の一員であるということ。コミュニティを創る一員であること。
・言っていることは正しいけど、だから反論できなくなる。我慢できないときはダメなところをびしっと指摘するだけでいい。
正論ほど人を追いつめるものはない。これは実は我が子に言われたこともあります。反論できずに心臓にぐうーっとくると。ホントダメだなあ・・・・・・・・・・
8年経った今、これをクリアできたかと言われると正直心許ない。
ただ1つ確かに言えることは、学習者はシビアにボクらのことを見ているということ。ストレートにフィードバックしてくれた子どもたちに感謝。それがボクを成長させてくれました。その当時は心拍数がハンパなく上がっただろうけれど・・・・経験を積めば積むほど、今までの自分のある部分が否定されることは、西條さんのいう「埋没コスト」になるために難しさが増します。
でもそれを乗り越えていくことが、ボクらの成長なんだろうな。
手前味噌ながら、このようなストレートなフィードバックをもらえる関係だったことにどこかホッとしています。あまりはっきり覚えていないけれど、「ボクはこのクラスでこうありたい。こんな先生になりたい」と言うことを話していたからこその、その理想とのギャップのフィードバックだったんじゃないかな。とはいえ、ズキンときたし、簡単には超えられなかったのだけれど・・・
自分の姿は自分で見えない。見えてる気になるけれど。だから、見えていないところを映し出す鏡が必要なんですよね。
退職の年まで。子ども達からこんなフィードバックをもらい、そして今もなおがんばっております。
おもしろがろう
せんせいになっていく
せんせいでいるということは
どういうことだろう?
本当はとってもシンプルで、
「おもしろがること」。
人をおもしろがり
自分をおもしろがり
世界をおもしろがり
ことがらをおもしろがり
一緒におもしろがる。
見えている世界は
ほんの一部だと知ること。
未知だからおもしろい。
この感度は
がっこうの中にいるだけでは
教育をながめているだけでは
決して育っていかないんだよな。
なぜなら教育は
どこか不自然な営みだから。
制度の中の営みとはいえ、
制度の中で眺めていてはみえない「おもしろさ」が
人には、世界にはある。
せんせいを目指している人こそ
せんせいこそ
ボクこそ
外に出よう。
おもしろがろう。
それが強みだったのに
いつのまにかつまらない人になってたな。
外に出てないからだな。
視野が狭くなると
人はつまらなくなる。